創業者 中村籐八

文明開化から富国強兵へ-近代国家「日本」の形成に向って、湧きたつばかりの明治中葉の潮は、北越の柏崎周辺にも、ひたひたと押し迫ってきていた。明治21年。それは柏崎にとって、いかなる年であったろうか。この年5月10日、資本金15万円で有限会社日本石油会社が刈羽郡石地町に呱呱の声をあげた。産業発展の国家的使命に眉をあげて明日をのぞんだ専務取締役内藤久寛氏の君き日の姿がそこにあり、また、翌明治22年の大日本帝国憲法発布、さらに明治23年に予定されていた第一回衆議院議員選挙をひかえて、改進党同好会刈羽支部が設置され、政党政治の端緒をひらこうとしていた。中村藤八も率先、この同好会に名をつらねた。

すべてが新しく、すべてがエポックメーキングだった。政治であろうと、産業・文化であろうと、国をあげて至る所に、自らが開拓し自らが形を創りあげていくべき未開の原野がひろがっていた。若い日本であった。そして若い柏崎であった。多感、熱血の中村藤八が、志を立てた時代背景には、このような新しい日本と柏崎の夜明けが、明治のエネルギーによって幕をひらこうとしていた時である。

中村藤八の立志-即ち柏崎物産会社の創立は明治21年4月1日。柏崎物産会社は今日の中村石油株式会社の前身である。そして、中村藤八は「中村家系譜」のなかで、この創業当時を回顧して次のように記している。

「明治21年4月、当地(柏崎町今町)に物産会社を創設し、越えて24年4月1日、その組織を変更し、個人事業となす。これ実に予が立志時代なり。処世変更の一大階段なり。予が今日あるを致せるもの一にここに基けり。思うに事業の企画は難し。ただ、これを成すものは公益を先にし、私利を後にするにあり。苟も国家に尽し公共に致さんとするの志ありて勤勉誠実その業に当るあらんか、必ずその志を同じうする者、之を助くべきなり。予が物産売捌所の今日あるもの、要するに前段の結果に外ならず」

中村藤八が誌した中村家系譜
物産取引所の開店広告
(明治24年4月1日)

柏崎に隣接する刈羽郡旧高田村上方に嘉永6年8月23日、中村藤左衛門の長男として生まれた中村藤八が、農業から商業へ人生の半ばにして「処世変更」をとげ、柏崎物産会社創業をはかったのは35才の時であった。奪励の気力を横溢させて立志、前途に横たわる波瀾に打ち克つべく世に立った時である。藤八の終生変らざる思想と精神は、前記の回顧の言葉のなかにすべて語られている。即ち「事業の企画は難し。ただ、これを成すものは公益を先にし、私利を後にするにあり。苟も国家に尽し公共に致さんとするの志ありて勤勉誠実その業に当たるあらんか、必ずその志を同じうする者、之を助くべきなり」である。海陸運送、倉庫業、石油販売、米穀業、肥料販売業などの経営に、あるいは東奔西走の政党・選挙活動や刈羽鉄道布設の雄図に、また義人生田万の埋骨場整備、図書館に中村文庫設立の社会的、文化的事業等々、63才をもって死去するに至るまで中村藤八の覇気ある行動を支え、ゆり動かした原動力は、前記のように烈々ともえ続けた郷土大衆への熱誠が炬火となったものである。このことは立志に当っての事業であった、柏崎物産会社の性格が充分に物語ってくれる。

明治の黎明が時を刻んで中期にまでさしかゝると、資本主義による新しい経済機構が産業や社会のなかに胎動を示しはじめてきた。新しい変革、新しい展開である。しかし刈羽郡・柏崎町の産業の主たる軸は、いぜんとして農業におかれていたことは間違いない。藤八自身も「予が商業に従事するは、予が一身の精神にして 家道を継嗣する所以に非ず。汝それ農業を怠る勿れ。」と子弟に書きのこしているのを見ても、素朴な農本主義者であったことが分る。農業という仕事が、人間にとって一番基本的で大切なものであるということを、素直に信じていたようである。

柏崎町今町(現在・西本町2石井神社左隣)
物産売捌所

当時の刈羽郡・柏崎町の資産の大方は米を主とした農業に依存し、富豪は小作人の1年間における収穫を抵当として資金を貸し、肥料などの買付をなさしめていたのであるが、明治14年、国立139銀行柏崎支店の開設をはじめ銀行が設置されるにしたがって、資金は次第に銀行に入るようになった。農業はその技術の進歩にともなって年々資金を大きく必要としながらも、だんだん資金不足におち入ってきた。藤八は、農業不振を来す原因が主としてこゝにあることを憂え、それが故に柏崎物産会社の必要を思い、設立創業に踏切ったのである。藤八は郡内富豪の飯塚(新道)、山口(小国)、牧口(荒浜)、山田(田尻)、村山(岡野町)、高野(平井)の諸氏を歴訪してその志をのべ、肥料・食塩の売買貸付、米穀類の売買紹介を業とする物産会社への出資を依頼し、約10万円の資本をもって創業、自ら取締役支配人の任に当ったのである。しかしながら、新規事業の成果は一時には挙らなかった。株主富豪は、利益が少ないために行末に疑惧の念を抱いたようであり、こゝに至って藤八は明治24年4月1日、その組織を変更して個人の事業とし、名称も「物産売捌所」と改称するに至った。ただ営利のみを図る単調な一般商人のそれと趣を異にして、藤八の事業は、常に地方の利益をすゝめ郷党の幸福を企画する念から出発したもので、肥料取締施行に際しても刈羽郡農民が、従来各地に流行する不正狡猾な手段におちいらず、農業の進歩発展を得たことに大きな力があったといえる。

この柏崎物産会社にはじまった創業の精神「公益優先」は、明治・大正・昭和・平成の四代にわたる激動の経済変遷にもまれ、その時代時代によって営業取扱い品目に移り変りがあっても、常に当社110年の歩みのなかにおいて掲げられてきた不動のバックボーンである。今日の中村石油株式会社を支える社是もこれであり、将来においても、日々に新しい公益と社会への奉仕が当社の使命である。創業110年を期して、さらにこの創始の精神を誇りをもって高く掲揚したい。